松根油は語る6

6.松根油とは何だったのか.
 
表紙 
Critical Oil Supplies



米軍は戦時中から,日本が松根油計画を進めていることを承知していた.第20航空軍の「航空情報レポート」(1945年発行)には,次のような記述がある.
 

「掘って蒸して送れ」(原文は"Dig and Steam and Send").これが最近,日本で盛んに宣伝されている新しい歌のタイトルである.これは最初は,"Rum and Coca Cola"(ラムとコカコーラ,当時アメリカで流行していた歌)に対抗した歌のようにも聞こえるがそうではない.松の根 - それは日本にとって石油の貴重な代替燃料であるが - を掘って処理して油を手に入れるために,かの不幸な国の大衆をさらに奮い立たせるために計画されたものである.日本はこれまでに石油の代替燃料生産について検討してきたが,松根油はこの長い道のりの一番新しい到達点である.

 
 米軍は日本側のラジオ放送を傍受して,日本がこの時期に大規模な松根油計画を立てていることを承知していたのである.
 
 戦後の米軍の計算では,松根油1.5リットルを生産するのに1人が1日働かなくてはならなかった.日本軍が計画していたように,松根油計画によって1日当たり約2000キロリットルの粗油を生産できるとの見通しに立てば,1日当たり125万人の労働力を必要とするという大規模な計画だった.
 
 また当時の標準的な蒸留釜である百貫釜は,一度に約300キログラム程度の松根を処理でき,1回のサイクルに1日を必要とした.計画どおり約37000個の蒸留釜をフル稼働させれば1日に約1万トンもの松根を必要とするはずであった.当時日本の松根の埋蔵量は750万トンと見積もられていたから(「日本海軍燃料史」),松根油計画が順調に進めば数年で日本の松は残らず掘削されてしまうはずだった.
 
 「米陸軍航空軍史」は,こうした石油の代替燃料生産について次のように述べている.
 
 「日本軍は,1945年の初めには,こっけいな松根油計画をふくめ,人造石油工業を間に合わせに造るという絶望的な努力を行ったが,それはあまりにも遅すぎ,またあまりにも少なすぎた」.
 
 
 終戦時に精製されていた松根油はごく少量だったといわれている.この松根油を航空機に使用したという公式の記録は残っていない.仮に松根油の精製が戦争末期に間に合ったとしても,それで戦況を変えるほどの効果はなかったはずである.
 
(この「松根油は語る」は,1999年10月14日から8回に分けて中国新聞「緑地帯」に投稿した内容を基に,写真や図表を加えて大幅に加筆したものです.)
 
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